〜八田先生と共に〜
 昭和58年4月常総学院高等学校が開校と同時に、音楽の教師と吹奏楽部の顧問に就任し、スタートを切ることになりました。開校当初ですから当然1学年しかいなく、当時は男子校でした。吹奏楽に力を入れるということで採用されたのに、そんな気配は全くなく部員も6人しか集まらず、楽器もない状態でした。近所の小・中学校から貸していただき頂き、軽トラックで手回しティンパニーを運んだなど懐かしく思います。1年も過ぎると吹奏楽に力を入れるという事がどのような事かわかりました。それは、昭和59年の夏、高校野球で全国優勝をした取手二高の木内幸男監督が常総に来ることが内定していて、野球の応援の為の吹奏楽に力を入れるということでした。どうも話がうますぎるなと思い、新卒の自分に始めから期待するはずがないな。というのが常総での吹奏楽のスタートでした。しかし、この1期生の6人の中に、日本を代表するトランペッターの神代修君がいたのです。当時は教頭で、のちに校長をされ現在は理事の原田敏和先生にトランペットが上手な生徒で、将来は東京芸大を目指している生徒がいるのでうまく育てるように言われました。そんな生徒は、この辺にいるはずがないと思って始めて彼のトランペットを聞いた時は本当に目から鱗でした。なにしろヴェニスの謝肉祭を音大3.4年レヴェルでパラパラと何の苦労もなく吹いていました。6人の練習といえば、みなさん知らない人も多いでしょうが、ファースト・ディヴィジョンという初歩中の初歩のバンド教本のロンドン橋を一生懸命練習していました。創部2年目は、共学になり部員も25名になりました。始めて高校B部門のコンクールに出場して、県大会でダメ金を頂きました。自由曲はディビス作曲の「ウェールズの歌」でした。今では本当に信じられないような思い出です。創部3年目は、高校A部門に出場し、県大会で銀賞を頂きました。自由曲はC.ドビュッシー作曲、交響詩「海」より、風と海との対話でした。
  この頃、永江楽器水戸店の宮崎店長より、日本を代表する吹奏楽指導者である八田泰一先生を紹介して頂きました。有名な人なので名前だけは聞いたことはありましたが、初めてお会いした時は「風采の上がらない格好でメガネは牛乳ビンの底のようなレンズ」で本当にこの人大丈夫かな?と思いました。そしてこの八田泰一先生との出会いが、私にとって運命的な出会いだったのです。先生の御指導は厳しく、理論的でユーモアがあり、更に極めて難解でした。その超強烈な個性は時として理解しがたく、御指導中、すごく怒っているので、こちらは生徒がうまく吹けないか、失礼な態度をしたのかと心配していると、それは譜面台の角度がそろっていないとかでした。又先生は名編曲家としても有名で、机の上のみで、よくこんなに素晴らしい音が出るなといつも感心させられ、私が一生かかっても到達しない八田ワールドを思い知らされたものでした。先生はスルメイカのような人で、かめばかむほど味がある、温かい人でした。私も生徒も、より多くのものを学ぼうと必死にくらいついた結果、創部4年目、コンクール出場3回目にして初の県代表になり関東大会に出場することことができました。そんなこんなしているうちに、ある日八田先生が、豊島区吹奏楽団を一緒にやっている吉田孝司先生を連れてきました。八田先生の弟子で、私と同じくらいの年齢です。大変優秀な人で神奈川大学でも小澤俊朗先生と共に指導しているとのことでした。お2人の素晴らしい指導のもと、私が顧問をしているうちは絶対無理だと思った全国大会に平成元年、創部7年目、コンクール出場6年目にして初出場し金賞を受賞させて頂きました。わけもわからず普門館のステージにのって、頭が真っ白になったことは、今でも思い出します。その後平成4年まで4年連続金賞を受賞し、八田先生は翌年平成5年健康を害され、帰らぬ人になってしましました。これで常総は終わったなと思ったのは周りよりも当の本人である私でした。「これからどうしよう・・・ ・・・」

当時の野球応援風景
〜吉田先生と共に〜こちらから

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