〜誕生から常総学院高等学校吹奏楽部顧問就任まで〜
 私は、1959年、茨城県の水戸市に生まれました。両親は全く、音楽には縁遠く、平凡な家庭で、愛情を一杯受けて育ちました。幼少の頃は、とにかく体を動かす事が好きで、休みの時などは、バットとグローブを持って、朝、家を出て帰って来るのは、夕方という感じでした。自転車で大洗、御前山までよく遊びに行きました。いわゆる「わんぱく小僧」でした。小学校に入学して、特に音楽に興味があったというわけではありませんでした。なぜなら、幼い心の中に、音楽は女子がするもので、男子がするなんてカッコ悪いと思っていたのでしょう。ところが音楽の授業の時に「本図君の声ってとってもきれいネ」と先生に誉められ、みんなの前で独唱をさせて頂いたりして、「もしかしたら自分はいけてるかも?」と勘違いをして合唱部に入ったのが、今日の私のスタートでした。中村先生、誉めてくれて本当にありがとうございました。
  その後、父親のすすめで茨城中学校に入学しました。当時は男子校で公立中学校にいった同級生がまぶしく、活き活きと見えたものでした。部活は合唱部に入ろうと希望したら、合唱部がなく、吹奏楽部なるものがあって中学・高校で構成されていて、実績があり有名で、花形であるということでした。見学に行ったら高校3年生に「お前はトロンボーンをやれ」と言われて恐くて断りきれず入部したのが、吹奏楽との出会いでした。そしてここで私の人生を決定する素晴らしい2人の先生と出会いました、元茨城県吹奏楽連盟理事長の故中村堯繁先生と故和田寛先生です。お2人の先生からは素晴らしい御指導と「人としてどうあるべきか」など、私の根底になるものを自然な形で教えていただきました。お2人の先生には、私が常総に採用して頂く時、創部から今日に至るまでお世話頂いています。
  両親は茨城中学校に入学したら水戸一高、東大というエリートコースを夢見ますが、人生そう甘くありません。音楽に夢中になった子供に何を言っても無駄です。高校はそのまま茨城高校に進学し、吹奏楽部で、思う存分、音楽に熱中しました。
  その後、武蔵野音楽大学に進学して、より専門的に音楽を勉強しました。大学では、同じ目的を持った大学生から多くの音楽的影響を受けました。そうしているうちに恩師の中村堯繁先生から、土浦市に「常総学院」という、高校が開校する予定で吹奏楽に力を入れるので、男の音楽の先生を頼まれているので「お前どうだ?」といった話を頂きました。私は即答せず、考える時間を頂きました。なぜなら大学の教育実習に行った、都内のとある高校の印象が悪かったからです。テレビのプロデューサーかディレクターになりたいことが無理だと解ったため、長男であるので、この話を受ける事にして、当時の校長先生との面接に初めて土浦で下車して常総を訪れました。市街地をぬけ、畑の中にポツンと立った工事中の校舎を見て「自分の人生、これでいいのかな?」と複雑な気持ちで一杯でした。時に昭和58年2月のことでした。

昭和60年当時の校舎
まだC棟がありません。。
中学校はもちろん影も形も・・
〜八田先生と共に〜はこちらから

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